132. 楠木正成の紋は『菊水』ではなく、『山吹水』だったらしい。

後醍醐天皇の忠臣として有名であり『大楠公』ともよばれた楠木正成は 橘諸兄の末裔であると名のっていたとされます。 一般に楠木正成の旗印は『菊水』と言われていますが、 実は橘氏の紋『山吹水』だとする説があります。 玉津岡神社の神馬に描かれた紋※【山…

133. 井手小学校も多賀小学校も、もともと違う場所にあったらしい。

明治7年、前年に廃寺となったばかりの玉井寺(現玉川保育園)に井手小学校が開校。 同じ頃多賀村でも廃寺西方寺跡地に多賀小学校が開校した。 後の学校制度の変化によって校名や規模を幾度も変え、 最終的に現在地へ落ち着いたそうです。 『ウワサ』の一覧

134. 井手町に、『綴喜郡唯一』の警察署があったらしい。

明治22年(1889)、井手町に綴喜郡で唯一の警察署(井手警察署)が設置され、 府下32署の中で第3位の署員数、場所は現在の井手町役場の場所だったそうです。 他、井手村に駐在所(字南溝・府道の踏切東側付近) 多賀村にも駐在所(字北口・現北部公民館)が…

127. 後醍醐天皇の旧跡『松の下露』は、水害後に移転したらしい。

昭和28年の南山城水害の前、井手から和束への道は 現在の道よりも南方の旧大正池沿いだったそうです。 後醍醐天皇が囚われの身となった地とされるこの旧跡は、 その旧道沿いにあったと言われています。 『ウワサ』の一覧

128. 井手町の山奥に『天狗岩』といわれる大岩があるらしい。

多賀の山奥に、その昔『天狗がいっぷくする場所』といわれた大岩があるそうです。 その岩の上部は畳4畳半ほど、所々に穴があき、いつ行っても水が溜まっており、 『天狗の飲み水』と言う人もおられます。 多賀の山奥には『多賀小字天狗岩』という場所が実在…

129. 井手町の大正池は、京都府景観資産に登録されたらしい。

井手の東方山間部にある大正池とその周辺町有林の計78ヘクタールについて、 平成20年1月24日 京都府景観資産『井手町大正池癒しと交流の空間』として登録されました。 『ウワサ』の一覧

117. 『井手』のことを『井堤』と書かれたこともあるが、実は 『井手』という書き方の方が古いらしい。

『井手』という字は古く、奈良時代から見られ、 『井堤』と言う字は、江戸時代以降に見られるらしい。 また、井手寺の事を円堤寺と書かれた時代があったが、 その読み方は『井デ寺』と振り仮名が打たれた国宝の古文書(東寺所蔵)の中から見つかったことによ…

118. 『やまぶき』の漢字は、『山吹』の他にもあるらしい。

大変難しい字ですが、このように書いて『やまぶき』と読むそうです。 特に『一重の山吹』を意味する字だそうです。 井手町にある『やまぶきの石碑』には、この漢字で刻まれています。 他にも『やまぶき』を意味し『やまぶき』と読む字があります。 昔から『…

119. 玉津岡神社参道の小野小町塚の傍らにある【下馬石】は、弘法大師の筆跡らしい。

玉津岡神社の参道に面して小野小町の墓と言われる小町塚がある。 その石塔の向かって右横に『下馬』と刻まれた古い石碑がある。 地元では弘法大師(空海)の筆跡とつたえられている。 ※『下馬』=境内へは馬から下りて入るべしと促す意味 『ウワサ』の一覧

120. 『つり禁止』だった大正池は、平成16年から有料で『つり』ができるようになったらしい。

もともと灌漑用として造られた大正池は、安全面から長い間『魚釣り』が禁止されていました。 現在は井手町野外活動センター『大正池グリーンパーク』で申込すると有料で『つり』を楽しめます。 ※この看板は経緯をものがたる大変貴重なものである。『ウワサ』…

121. アサヒグラフ別冊【皇室の名宝】の表紙を飾った日本画は、井手玉川の屏風絵だったらしい。

皇室に伝わる名宝に、日本画で有名な狩野派の大家である狩野探幽(江戸時代)による 六曲一双の屏風絵が、1998年2月15日発行のアサヒグラフ別冊(朝日新聞社)の表紙を飾った。 この作品は『新古今和歌集』に詠まれた二首の歌を題材とした名所歌意図の屏風で…

122. 玉川で電気石(トルマリン)が採れるらしい。

JR玉水駅から東へ約1.7キロの玉川周辺で、電気石(トルマリン)が採れたそうです。 電気石はパワーストーンとしても有名で、水や植物を良好に保つ作用もあるそうです。 古くから玉川が愛されたのは、電気石のパワーが関係するのか・・・・まではわかりませ…

123. 玉津岡神社と高神社の起源は同じ年らしい。

井手の上井手地区にある玉津岡神社と、多賀地区にある高神社は、 ともに欽明天皇元年(540年)よりの歴史を持つ由緒ある神社です。 『ウワサ』の一覧

124. 平安時代、滋賀の多賀大社よりも高神社の格が上だったらしい。

平安時代の延喜式神名帳という全国の神社格付け一覧によると、 滋賀県の多賀大社よりも、井手町多賀の高神社の社格の方が上だったそうです。 しかし、平安時代以後、多賀大社の勢力が増し現在のような立派な神社となられたそうです。 井手町の高神社は江戸時…

125. 『応仁の乱』の時、井手町にも陣がしかれたらしい。

文明17年(1485年)10月、応仁の乱の西軍方、畠山義就派の誉田氏以下河内勢と 古市氏とが、現在の井手町多賀・国道24号線東の『北古市場』『南古市場』に 陣をしいたそうです。 【井手町史四集 P195参照】 『ウワサ』の一覧

126. その昔、井手町で砥石の採掘がおこなわれていたらしい。

井手の東部の山地は、昔から上質の『目無砥石』を産出していたそうです。 農閑期や不作時の貴重な収入源だったそうです。 『ウワサ』の一覧

116. 井手町の玉川は 環境省の 『平成の名水百選』に認定されたらしい。

平成20年7月に開催された北海道洞爺湖サミットを機に 【環境省】に新たに選定された『平成の名水百選』に、井手町の玉川が選ばれました。 選定条件である【地域の生活に溶け込んでいる清澄な水や水環境のなかで、 特に、地域住民等による主体的かつ持続的…

115. その昔、井手町で大相撲の巡業がおこなわれたらしい。

1924年(大正13年)4月20日、 玉水駅前に本格的な土俵をしつらえて大相撲の巡業がおこなわれた。 国技館で相撲をとる横綱宮城山、大関荒熊、をはじめ関脇、小結、前頭など 多数の大相撲力士による地方巡業であって大入りだったそうです。 これを記念した番付…

114. その昔、井手町で作られた釣り竿やスキーのストックが海外へ輸出されていたらしい。

大正時代、才田山を中心に新四郎山などを開墾して黒竹の栽培が盛んになり、 やがて輸出用のスキー・ストックを生産がはじまり、 昭和に入ると、井手町産の黒竹の釣竿が増え、第二次大戦前までアメリカやフランスに輸出されていたそうです。 『ウワサ』の一覧

113. その昔、井手町を本店とする『玉水銀行』があったらしい。

明治30年2月、綴喜郡内の地元独立銀行として最初の『玉水銀行』が設立されたそうです。 本店は現在の南都銀行玉水支店の地にあり、 明治34年には玉水銀行田原支店(現宇治田原町)ができたそうです。 『ウワサ』の一覧

112. その昔、井手町はミカンの産地として有名だったらしい。

この地におけるミカン栽培の起源は橘諸兄の時代という説がありますが、 江戸時代に多賀村がミカンの産地であったとされます。 明治18年の地図によると、井手村では井手山山腹から玉川南側の株山山麓、 多賀村では山の南西斜面から山頂付近までミカンが植えら…

111. 井手町の4つの天井川は、明治以後 急に大きくなったらしい。

そもそも天井川は、川床を上昇させる土砂が多量に供給される河川に多く見られるが、 江戸時代までは、村の人々の力で 土砂を取り除く作業が行われていたため それほど大きくならなかったそうです。 しかし、明治維新以後 農村の共同作業の慣行がなくなり、さ…

110. 井手町のように 川の下を通る鉄道は珍しいらしい。

井手町には4つの天井川(青谷川・南谷川・玉川・渋川)があり、 その内3つの川の下を鉄道(JR奈良線)が通っている。 井手町以南の木津川流域の人々には当たり前の光景だが、 全国的に、かなり珍しいものらしい。 『ウワサ』の一覧

109. その昔、井手町に 【カフェ】 があったらしい。

明治29年(1896年)、奈良鉄道株式会社により京都〜奈良間(現JR奈良線)が開通し、 玉水駅前は商店が立ちならぶ南山城唯一の商店街として発展していった。 昭和10年(1935年)ごろには、酒場・カフェー・玉突き場・喫茶店などもあらわれ、 玉水橋を渡って…

108. 多賀の読み方は【たか:TAKA】が正しく、【たが:TAGA】は誤りらしい。

井手町史によると、【タカ:TAKA】と読むのが正しく、国鉄(現JR)の山城多賀【ヤマシロタガ:・・・・TAGA】は誤りであるとされている。 町史には、【至急、正しい呼び方の『タカ』(TAKA)に改正する必要がある。】と書かれている。

107. 多河郷(多賀)の地名は、平安時代の辞書『和名抄』に書かれているらしい。

平安時代の辞書である『和名抄』(和名類聚抄)に、綴喜郡【多河郷】の地名が書かれている。 現在の多賀の地名は、古くは 高・多河・多賀などと書かれていた。 『ウワサ』の一覧

106. 井手寺は梅宮社を守るための神護寺だったらしい。

橘諸兄の曾孫にあたり 嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(=檀林皇后)が もともと井手寺(井堤寺)境内にあった梅宮社を京都の嵯峨に移して 壮大な神社を建立した。(現在の梅宮大社) そのことから井手寺は梅宮社を守るための神護寺として位置づけられた。 …

105. 井手町の『左馬』は、本来『水を司る神』であったが、いつの頃か『女芸上達の神』になったらしい。

保延元年(1137年)対岸にあった雨吹龍王祠(水分神社)に奉納され 俗に『駒岩』とよばれたこの岩に、馬の右半身が浮き彫りされている。 本来は、玉川流域の水争いなどの心配事のおこらぬよう願って奉られたものだが、 馬の右半身が彫られたこの岩を見て、当…

104. 苗字で『井手さん』のルーツは『橘姓』が多く、井手町に関係するらしい。

井手左大臣とよばれた奈良時代の左大臣橘諸兄は、井手の名を全国的なものにし栄華を極めた。 しかし、藤原氏の台頭とともに橘氏は衰退し、一族の多くは橘姓から『井手』又は『井出』などに改姓して全国へ散っていったとされる。 『ウワサ』の一覧

103. 橘氏の本拠地は『井手の里』であったらしい。

橘姓の最初は、和同元年(708年)、県犬養三千代が元明女帝より橘宿禰の氏姓を賜った事に由来する。 そして三千代の子 葛城王(橘諸兄)が橘姓を継いだが、 その母三千代が藤原不比等と再婚したので、一般的に橘氏の祖を諸兄と考えるようになった。 その諸兄…