2008-01-01から1年間の記事一覧
平成20年7月に開催された北海道洞爺湖サミットを機に 【環境省】に新たに選定された『平成の名水百選』に、井手町の玉川が選ばれました。 選定条件である【地域の生活に溶け込んでいる清澄な水や水環境のなかで、 特に、地域住民等による主体的かつ持続的…
1924年(大正13年)4月20日、 玉水駅前に本格的な土俵をしつらえて大相撲の巡業がおこなわれた。 国技館で相撲をとる横綱宮城山、大関荒熊、をはじめ関脇、小結、前頭など 多数の大相撲力士による地方巡業であって大入りだったそうです。 これを記念した番付…
大正時代、才田山を中心に新四郎山などを開墾して黒竹の栽培が盛んになり、 やがて輸出用のスキー・ストックを生産がはじまり、 昭和に入ると、井手町産の黒竹の釣竿が増え、第二次大戦前までアメリカやフランスに輸出されていたそうです。 『ウワサ』の一覧
明治30年2月、綴喜郡内の地元独立銀行として最初の『玉水銀行』が設立されたそうです。 本店は現在の南都銀行玉水支店の地にあり、 明治34年には玉水銀行田原支店(現宇治田原町)ができたそうです。 『ウワサ』の一覧
この地におけるミカン栽培の起源は橘諸兄の時代という説がありますが、 江戸時代に多賀村がミカンの産地であったとされます。 明治18年の地図によると、井手村では井手山山腹から玉川南側の株山山麓、 多賀村では山の南西斜面から山頂付近までミカンが植えら…
そもそも天井川は、川床を上昇させる土砂が多量に供給される河川に多く見られるが、 江戸時代までは、村の人々の力で 土砂を取り除く作業が行われていたため それほど大きくならなかったそうです。 しかし、明治維新以後 農村の共同作業の慣行がなくなり、さ…
井手町には4つの天井川(青谷川・南谷川・玉川・渋川)があり、 その内3つの川の下を鉄道(JR奈良線)が通っている。 井手町以南の木津川流域の人々には当たり前の光景だが、 全国的に、かなり珍しいものらしい。 『ウワサ』の一覧
明治29年(1896年)、奈良鉄道株式会社により京都〜奈良間(現JR奈良線)が開通し、 玉水駅前は商店が立ちならぶ南山城唯一の商店街として発展していった。 昭和10年(1935年)ごろには、酒場・カフェー・玉突き場・喫茶店などもあらわれ、 玉水橋を渡って…
井手町史によると、【タカ:TAKA】と読むのが正しく、国鉄(現JR)の山城多賀【ヤマシロタガ:・・・・TAGA】は誤りであるとされている。 町史には、【至急、正しい呼び方の『タカ』(TAKA)に改正する必要がある。】と書かれている。
平安時代の辞書である『和名抄』(和名類聚抄)に、綴喜郡【多河郷】の地名が書かれている。 現在の多賀の地名は、古くは 高・多河・多賀などと書かれていた。 『ウワサ』の一覧
橘諸兄の曾孫にあたり 嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(=檀林皇后)が もともと井手寺(井堤寺)境内にあった梅宮社を京都の嵯峨に移して 壮大な神社を建立した。(現在の梅宮大社) そのことから井手寺は梅宮社を守るための神護寺として位置づけられた。 …
保延元年(1137年)対岸にあった雨吹龍王祠(水分神社)に奉納され 俗に『駒岩』とよばれたこの岩に、馬の右半身が浮き彫りされている。 本来は、玉川流域の水争いなどの心配事のおこらぬよう願って奉られたものだが、 馬の右半身が彫られたこの岩を見て、当…
井手左大臣とよばれた奈良時代の左大臣橘諸兄は、井手の名を全国的なものにし栄華を極めた。 しかし、藤原氏の台頭とともに橘氏は衰退し、一族の多くは橘姓から『井手』又は『井出』などに改姓して全国へ散っていったとされる。 『ウワサ』の一覧
橘姓の最初は、和同元年(708年)、県犬養三千代が元明女帝より橘宿禰の氏姓を賜った事に由来する。 そして三千代の子 葛城王(橘諸兄)が橘姓を継いだが、 その母三千代が藤原不比等と再婚したので、一般的に橘氏の祖を諸兄と考えるようになった。 その諸兄…
江戸幕府の交通政策で、主な街道に設置された宿駅の一つが旧大和街道の玉水にあった。 宿駅には問屋・旅籠をはじめ、人足・馬などが整えられ、 後の参勤交代によって街道の往来が増加し大きな役目を果たした。 明治5年に宿駅制度が廃止され、各宿駅には陸運…
『田村新田』は元禄15年(1702年)和束郷大年寄、田村清兵衛永貞が願人となって開発された。 清兵衛は多くの人を集め、わずか20日余りで開墾したそうです。 その3年後には京都代官所の検地をうけ正式に田村新田(村)が成立し発足しています。 その後 享保の…
元弘元年(1331年)9月、笠置寺を仮の宮としていた後醍醐天皇は 同月27日夜、奇襲を受けて数名の伴を率いて和束から有王の地へ落ち延び、 大きな松の下で休まれたという。 しかし一時の安らぎもつかの間、囚われの身となった。 その内容は『太平記』に詳しく…
井手町最古の仏像は、井手西福寺(真言宗)の聖観音菩薩立像で、 平安中期作とされ井手町指定文化財となっている。 次に古い仏像は、多賀西福寺(浄土宗)の等身大の十一面観音菩薩立像は 平安後期作とされる。 両仏像とも後年に大きく補修されている。 もし…
紫式部の作で有名な『源氏物語』に、井手の玉川を詠んだ歌が三首ある。 風吹けば 浪の花さへ色見えて こや名に立てる 山吹の崎 春の池や 井手の河瀬にかよふらむ 岸のやまぶき そこも匂へり 思はずに 井手の中道へだつとも いはでぞ恋ふる 山吹の花 『ウワサ…
清少納言の『枕草子』や『かげろふ日記』『更級日記』『愚管抄』など 多くの書物に登場する『贄野の池(にえののいけ)』は 井手町多賀上ノ浜にあったとの有力な説があるそうです。 『ウワサ』の一覧
日本各地の名所『たまがわ』と称する六つの『たまがわ』を まとめて『日本六玉川(にほんむたまがわ』と呼び、 和歌などの古典文学をはじめ、日本画や浮世絵にも登場することになりました。 野路の玉川(のじのたまがわ) : 滋賀県草津市老上町。 野田の玉川…
応仁の乱(1467〜1477年)の頃の記録に、 井手氏の『井手城』『井手上村台城』、 多賀氏の『多賀城』の名があります。 いづれも天守閣などは無く、柵や堀を設けただけの実践的な城だったようです。 『ウワサ』の一覧
井手町内で、判明しているだけでも 70基もの古墳がある。 井手地区に約20基、多賀地区には約50基も分布しています。 それぞれ古墳群が形成され、高神社境内の15基の古墳群をはじめ 町内各地に点在しています。 『ウワサ』の一覧
約1万年前から井手の地に人が住んでいたと考えられます。 明治期中頃に上井手台地から発見された石器のほか、 井手町の南端・井手町井手鳥休からは、 縄文時代前期〜奈良時代にかけての遺物が数多く発掘されています。 『ウワサ』の一覧
東大寺の創建と大仏造立に尽力し、東大寺の初代別当をつとめた大僧都 良弁(ろうべん)という高名なお坊さんが、【幼少の頃、東国より鷲にさらわれ、山城の国多賀郷に落とされた】・・・との伝説と、 【良弁が修行した滝】・・・として伝わる。 良弁が活躍し…
日本最古の歌集『万葉集』の編集者の一人とされる 時の左大臣橘諸兄は、万葉集の中に八首の自作和歌をおさめているそうです。 その中には、諸兄の本拠地である『井手』で詠んだと思われる歌もあるそうです。 『ウワサ』の一覧
日本最古の歌集『万葉集』の一首 はや(とく)来ても 見てましものを やましろの たかのつきむら ちりにけるかも 高市連黒人(たけちのむらじくろひと) 作 この『つきむら』とは槻(ケヤキの意味)の群とされ、 この事から多賀に『ケヤキの群生』があったと…
中国が原産で、古代に日本に伝わったとされる梅は、 日本最古の歌集『万葉集』に多く登場している。 この中で多賀の梅を詠んだ和歌が『万葉集』の巻十『春の雑歌』の一つに登場する。馬並めて 高の山辺を 白たへに にほはしたるは 梅の花かも 詠人不知(よみ…
宇治田原町の化石は有名だが、井手町にもヒシの化石層がある。 才田山の西、平山古墳が発見された付近の粘土層から 淡水性の植物である『シリブトビシ』の化石が発見されたそうです。 『ウワサ』の一覧
高神社の木造獅子頭は鎌倉時代のもので、それ以前のものは全国で10個も残っていない。 現物は、京都府立山城郷土資料館に、復元された木造獅子頭とともに常設展示されている。 『ウワサ』の一覧